おはようございます。シクロツーリズムたたら 代表のTakahiroです。今回はちょっと社会問題的なことを書かせていただきます。

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多々良沼の南側、邑楽町側の多々良沼公園に生息している野良猫さんです。当然というか人になついていて、個体にもよりますが自ら近寄ってくるものもあります。私としては被写体になっていただくことになるので特段嫌がることもしませんし、彼らの意思に任せているという感じなのですが、やはりそれでも気になることはあるんです。それは、

野良猫にエサをあげるべきか否か

ということに他なりません。ちょっときついことを申し上げるのですが、杓子定規に「条例等で決められてるからエサをやるな」ということでは決してありません。ただ、そのエサやりという行為にしっかりと責任が取れますかと問いたいということなんです。

大抵私が伺う休日の夕方などは、エサを意図的に与えている人に出くわす確率が高くなります。そしてその場合、大抵が自宅の余りものを持ってきて食べさせている有様。その結果どうなるかお分かりでしょうか。私当たりの素人でも、腎臓に負担を掛けるような食べ物、特に塩気の多いものなど食べさせてはいけないんです。だからこそ、キャットフードというものの意味が大きい訳ですし、ネコも長生きできるようになったと言えます。飼い猫ですと優に15年を超える寿命を記録する個体もありますからね。聞いた話ですが、野生の猫は寿命が5年以下と極端に短いそうです。腎臓疾病というのは猫にとって宿命というべきものらしく、いかに腎臓に負担を掛けないかが寿命を延ばすと言っても過言ではないそうです。

いや、寿命は寿命で仕方ないということはあります。飼い猫として栄養の整った食事を取り長寿を全うするのもありですし、野生で動物そのものの生活を送る中で充実した寿命を全うするのもまたあることです。ただそこに人間がどういう形で関与し、また責任を負うかといことについて考えると、私はどうしても「猫のエサやり」を正当化する理由を見いだせないんです。だって、そのエサのせいで病気になった猫の治療を、エサをやった当人が責任を持って行うか。恐らくNOでしょう。飼い猫の場合ここまで「人間と同じ扱いをする」という条件だからこそそうしたことが認められる訳で、野良猫のエサやりはそれこそ「行動の責任所在があいまいのまま」なんですよね。関わった以上は全て責任を取るべきだし、それが嫌なら一切関係性を持たない。そういうことを理解しない人がいて、悪意のない悪行を平気で行っている事実に気付くことすらない人を、本当に憐れに思います。

多々良沼公園のマイナス面を書かせていただくことになってしまいましたが、そういう事実も目の当たりにしていただいて、野良猫の問題を多角的な観点から考えていただきたいとも思います。ちょっと硬いことを書き過ぎましたが、猫には猫の生き方があります。誰もそれを振り回すことなどできないのですから。